ヲタ卒への日々…。

ジャニヲタ卒業に至るまでを記録します。

ジャニヲタ卒業。

 

 

 

本当に、良くも悪くも、私にとって、あなたは手の届かない存在でした。同じ空間にいても、目が合うかどうかもわからない存在でした。

このまま、お金を払ってしか会えない関係のあなたを追いかけ続けるよりも、自分の人生に投資して、大きくなって、その先で出会うことができたら、そういう運命なのだと、感じることができると思う。

 

 


学校でも、家でも、ひとりぼっちだった私に、笑顔や感動、喜怒哀楽を教えてくれてありがとう。あなたを心の支えにして過ごした日々は私を成長させてくれたし、「誰かのためにがんばる。」というような経験をしたのもジャニーズがいてこそでした。本当に本当に宝物でした。


あなたへの感謝は、言葉では言い尽くせないよ。

 

 

 

でもね、最後にひとつ。
私は、いつも背中が伸びていて、瞳がまっすぐ何かを捉えている、そんなときのあなたが好きでした。
最近、私の目には、あなたがそんな風には見えなくなりました。
あなたが変わったのか、私が変わったのか、分からないけれど、もう、あなたに時間を使い続ける人生はやめます。
今までありがとうございました。

 


これからも、がんばってください。

 

 

 

 

いつか必ず、仲間とともに、目の前にいる子たちにたくさんの銀テを降らせてね。

 

 

本当にありがとう。

 

 

 

ジャニーズ=かっこいい店員さんがいるお店

 

 

 

いい例えが見つかった。

私がジャニーズにハマったのは、かっこいい店員さんがいるお店で朝食をとっただけ。


私の人生を24時間に例えると、まだ正午は過ぎていない。寿命が80だとすると、まだ学校も始まってないみたい。


だけど、私はもう、お店を出る!

ありがとう!

 

 

だけど、ときどき、ふとした瞬間に思い出したり、コーヒーだけ飲みに行ったりするかもしれない。


でも一応、もう卒業だ!

 

 


少しの間だったけど、お世話になりました。

いい始まりだったよ!

ありがとう!

 

 

 

ヲタ卒っていうより・・・〇〇!?

去年の秋ごろにヲタ卒を決心してから、まわりの友だちや家族に「ジャニーズはもう卒業するから。」と、宣言してきた。

まわりの反応は様々だったが、「これからは何にハマるの?」という声が多かった。私、どんな目で見られていたんだろう…と少し不安にもなったが、いざヲタ卒した自分を想像してみると、少しワクワクした。

 

 

 

2016年4月から1年間、私は受験生だった。地方住みということもあり、ジャニーズに触れることができるのは、雑誌、事務所からのメール、少クラぐらいしかなかった。

 

ある日、本屋に行くと、私は無意識に5誌が置いてあるコーナーに足を運んでいた。だけど、そのコーナーの前に行った瞬間、「私、どうしてここにいるんだろう。」という思いでいっぱいになった。雑誌を手に取って、担当が載っているページを開いても、以前ほど沸かない自分がいることに気づいた。

「好みのカットではないから沸かない」ではなく、「この人物に以前ほどの情熱を持っていない」ということを実感した。

 

それからというもの、少クラで担当をみても、あまりキャーキャーならなかった。自分の目はテレビの中のタレントをみてるのに、頭は「前ほど沸かないな~。」と思ってしまう自分の中の温度差に耐えられなくなった。

 

 

 

 

また、ジャニヲタって終わりがないのではないか、ということも考えてしまった。幸か不幸か私は今まで、地方のど田舎に住んでいた。だから、東京である公演に行きたいと思ったら、遠征費がチケット代の10倍するのなんて当たり前だった。そういう理由で、申し込みすら親に許してもらえない公演だってあった。

受験のおかげで、4月から私は関東に住む。私は親の目から離れた生活をすることになるが、参戦しまくるのだろうか。お金もないのに、一人前に「たくさん入りたい。」なんていう気持ちが抑えきれなくなるだろうな、と思う。

だけど、何公演入れば気が済むのだろう。もし全公演入ったとしても、はたしてそれで満足するだろうか。「もっといい席がいい。」とか、「やっぱりあっちの席のほうが近かった。」とか、そんなことを考えてしまうであろう自分が容易に想像できる。

それならば、せっかくだから、ヲタ卒してから関東に住むほうがいいと思った。

それに、結局どんなにがんばっても、私よりたくさん情報をもっている人、私よりジャニーズに詳しい人は数えきれないほどいるということもわかった。

もちろん、ジャニーズについての知識を競うためにヲタでいるわけではないし、くだらないことを考えてるのはわかってるけど、勝てないってわかってる世界で生き続けるのは、私には無理だと思った。

というか、私が何冊雑誌を買おうと、公式写真を買おうと、担当が私の名前を知ることは、まずない。「客席を埋める大勢の中の一人」でしかないのならば、自分に時間を費やして、「担当より有名になる」ぐらいの気持ちでいろんなことをがんばって、何かの番組で共演して、「**さんと共演できて嬉しいです。」って担当に言わせるぐらいになってやろうと思った。 こんなふうに考えると、とてもワクワクしてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも実際、いくらこんなふうに頭で考えたって、心残りがあったら卒業はできないと思う。私はいつも、何を選ぼうか迷ったとき、「どれかの選択肢に決めた自分」を思い浮かべて、「後ろ髪をひかれないかどうか」を確認する。

だから今回も、「ヲタ卒した自分」を想像してみた。だけど、心残りはなかった。担当がのぼりつめていく過程を、私が知ってるのはほんの一部かもしれないけれど、みることができて、うれしかったし、たのしかったし、仕事に向かう姿勢とかがとても大好きで、「私も担当みたいに、かっこいい人になりたい。」といつも思っていた。「ジャニヲタがかっこよくないから」ではなくて、私自身が目指すかっこいい人になるためには、「私自身がヲタ卒すること」が必要だと自分で考えた。仕事とジャニヲタを両立している方や、勉強とジャニヲタを両立している方はたくさんいるし、本当に尊敬する。

 

 

これって、よく考えてみると、「ヲタ卒っていうより、自立!?」って思った。

自立は、「他への従属から離れて独り立ちすること」らしい。もしかしたら、ジャニヲタでいたことは、私にとって、何かに従属している安心感を得るためでもあったのかな、なんて思った。何回も同じ動画をみたりするのも、度が過ぎると、時間の無駄だということもわかったし、結局その行為によって自分は何も成長しないことに気づいた。今年、自分のために勉強して、少しは成長を実感できたからこそ、そういうことに気づいたんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、もし、またジャニーズに対してときめいても、ジャニーズを生活の中心におくことはないと思う。そのくらい、このヲタ卒には自信があるし、だからこそ、まわりのみんなにも宣言したし、自分は少しかもしれないけれど自立できたと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

今までありがとう!

 

ジャニヲタは卒業するけど、ずっと応援してるよ!

 

 

女の子だけでなく、まわりの高身長イケメンたちや、年齢が2倍近くありそうな男性、女性を次々とオトしていく、不思議な魅力をもつあなたは、ずっと私の憧れだし、いつか必ず、お金ではなくて、私の努力であなたの近くに行けるくらい、すごい人になるからね。

 

ありがとう!

 

 

 

SMAP解散。

先日、SMAP×SMAP最終回を観た。

1人のジャニーズファンとして観ていた。

直接観たのは最後の20分ぐらいであったが、いろんなことを考えながら観ていた。

 

SMAPというグループよりも若い私は、デビュー当時を知らないし、正直、6人時代もよく知らない。だけど、数々の音楽番組での「○○な曲ランキング」などで、常にSMAPがランクインしていたことは知っている。

SMAPと言えば、おじいちゃんやおばあちゃんにも話が通じた。「SMAP」という存在を知っているからこそ、「嵐」という概念の理解が容易になり、おじいちゃんたちと、「嵐が紅白に出るみたいだね。」という会話まですることができた。

それだけ、日本国民に与えてきた影響は偉大だと思う。

 


まだ、彼らが後輩たちに与えた影響も計り知れないと思う。SMAPのメンバーのおかげでドラマに出演させてもらったり、バラエティに呼ばれたり。ついには、その呼ばれたジャニーズタレントのしょうかいとして、さらに下の年代のジャニーズタレントがバラエティに出演したこともあった。本当にありがとうございました。

少クラでも、SMAPの曲は何回も聞いた。オリジナルスマイル、ベストフレンド、SHAKE、ありがとう、などなど。Jr.たちだけでなく、客席も一体となって楽しんでいるようで、観ていてとてもわくわくした。本当にすごいと思う。

 


世界に一つだけの花」を歌っている時、彼らは何を考えていたのだろう。スケジュールの詳しいことは分からないが、「あと数分でSMAPとしての人生が終わる。」なんていうことが頭をよぎったりしていたのかな、と思っていた。

私たちが観た表舞台の数と同じだけ、彼らには舞台裏があったはず。そのための準備期間だって、もしかしたら、私たちのうちわ作りやメイク時間よりも長いかもしれない。準備期間と言っても、ただダンスの練習をすればいいだけではない。いろんな困難があって、私たちが知らないこともたくさんあるのだろうと思った。

歌い終わって、天井を見上げた目の奥には、どんな景色が広がっていたのだろう。

 

 

 

 

 

 


※ここから先は、より主観的な表現を含みますので、ご了承ください。


ノンストップライブの放送もあった。歌い終わって5人が中心に集まり、5人で歩いて森くんからの手紙が読まれた。手紙が読まれた後、5人で並んで坂をのぼる後ろ姿を見ると、びっくりするぐらい冷静になっている自分がいた。

「なんだこの茶番。」と思った。

「最後は5人で並んでゆっくり歩いてください。」なんていうスタッフからの指示が予めあったのならば、ただの茶番だ。

なんていう興ざめなことを考えたりもした。だけど、言い方は悪いかもしれないが、その茶番に全身全霊をかけてくれている彼ら、そして、全力で応援するファン、という構図が成立しているからこそ、素晴らしい世界が開かれたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 


世界に一つだけの花」を歌い終わった後、幕がおりてきた。

オルゴールの音が響いていた。

オルゴールの途中であったが、休符のところだったのか、音が一瞬途切れた。

私は、「曲が止まった。」と錯覚した。

「あ、曲が止まった。この幕の下の隙間から見える脚が今にも動いて、『やっぱり解散しませ〜ん!!!』ってみんな笑顔で出てくるかもしれない。」と思った。

そんな考えを巡らせたり、そんな考えを否定したり、思考を何往復もできるくらい、その一瞬の空白の時間が、私にとっては、とても長く感じられた。

しかし、私の淡い期待を踏みにじるように、次の音は何も知らないふりをして流れ始め、幕がおりた。

 

 

 

 

終わった。

 

 

だけど、誰もSMAPを忘れはしないと思う。

 

 

 

 

 

まだまだ書き足りないから、またいつか書こうかな。

 

 

 

 

 


ありがとうございました。

 

先輩を見る。

 

 

 

ほとんどの場合、ある世界には先人がいる。自分が第一人者だという証明は非常に難しいし、その先端を走り続けるのも非常に大変だ。

でも、だからこそ、他人の背中を見ることができるのは、とても良いことだと思う。

 

だがしかし、ふとした瞬間に、先輩を「同じ世界を楽しむ私は、他の世界の人から、こういう目で見られているのかもしれない。」という目で見てしまう。

我に戻る瞬間である。
そういう目で先輩を見ると、失礼かもしれないが、「私もこう見られてるのかー。あちゃー。」となる。

 

 

その先輩(Aさんとする。)は、元某運動部である。Aさんの直接の後輩ではないが、中学時代は私も同じ某運動部だった。
高校生になって私はその運動部には入らなかったが、県内屈指の強豪校だったため、その部活に属する方々は廊下を楽しそうに歩いていた。
彼女たちは、部活と同じテンションのまま廊下でお話されるので、嫌でもその声が聞こえてくる。私は彼女たちの発声が苦手だった。
「私は、○○だと思うよー。」を、
彼女たちは、
「atsiはぁ、○○だとおmoaよー。」
みたいな雰囲気で話す。
伝わりますかね?(笑)
それがとても苦手だった。本当に。

 


Aさんが元某運動部で、ジャニヲタということは前から知っていたが、ある日Aさんが彼女の担当Gについて、まさに前述の口調で語っている声が聞こえたのだ。

 

 

「あちゃーーーーーーー。」

「こりゃいかん。私もこう思われとるんかいな。」

と思ってしまった。


ということがあり、ジャニヲタを辞めたくなった。

 

 

 

 

ジャニヲタを辞めるというか、自分から情報を追うのをやめる。

これだけで随分違う。

 

 

 

 

情報を追わないでいると、いつの間にかその状況に慣れている自分がいる。

 

世界中の誰よりも1番に情報を知りたいと奮闘していた自分がバカみたいに思えてくる。

 

 

 

 

情報を知らなかったことが原因で自担を見れなくても、それはそれで運命であり、その時の私には必要なかったんだと思えば気がすむことだと気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私にとって、少クラとは。




今は少し忙しいので、生活が落ち着いたら、グッズやDVDを手放していこうと考えた。1ページの中で一か所しか自担が写っていないTV誌を買い漁ったのも良い思い出の一つである。

そんな雑誌たちにも、笑顔で別れを告げることができる自分が容易に想像できた。

写真も、「売る時期を見計らう。」という理由の名の下に、何枚かを手元に残しつつ、手放していくことができると思う。(たぶん。)
あ、でも自担の初公式写真はとっておく…。だってかわいいんだもん。

CDは比較的、簡単に手放せる。音源は持っているし、そもそも元担GのCD本体に未練なんてない。

うちわも売れる。だってJr.担だから自担のなんてないもん。

DVDはどうだろう。自担が映っているものしか持っていない。どれかを残そうと思っても、選べない。そのときそのときで、自担の出来具合いも違うし、その作品に対する私の思い入れも全て違う。全て違うベクトルだから、「どれか一つ。」なんてできない。映る瞬間が多いのはもちろん鑑賞するかいがあるし、少ないのも、それはそれで、これまた楽しい。

でも、今、この記事を書いているうちに、頭の中で少し選別できたから、よしとしよう。


DVDはDVDでも、自分で編集したものがある。録画し、ディスクに入れた少クラたちだ。これは手放せない。数年前の少クラをたまに観たときの感慨深さといったらもう、言葉には言い表せない。




さて、ここからが本題。

「この子とこの子ってこの頃から一緒だよね。」

「この時は違う色の衣装を着て、関わりもなかったこの子とあの子が、今では同じグループになるなんて、誰も思わなかったよね。」

「この時のあなたたちには、まだ見えないだろうけど、数年後に、あなたたちはデビューするんだよ。」

「ああ、この子辞めちゃったよね。隣の子は今、第一線で活躍してるけど。」

と、いろんな感情が溢れ出てくる。

どんなに学校がきつくても、1週間に1日だけの曜日を目標に生き抜くことができた。どんなに部活で疲れてても、録画機器の関係で「リアタイでないと画質が落ちちゃう。」と唱えながら、ダッシュで帰宅した。

次第に、友だち(非ヲタなのに)も、「あっ、今日、少クラだもんね。」と言って、一緒にダッシュで帰ってくれるようになった。本当にありがとう。

そう。少クラは、私の青春に欠かせない存在だった。ジャニヲタだから、とか、そういう意味じゃなくて、私が精一杯の情熱を注ぎ込んだ証として、手元に残しておきたい。

コンサートDVDの話と若干かぶるが、出番が多かれ少なかれ、全ての回が良い思い出である。

親との冷戦中に、殺伐とした空気の中で観た少クラ。

テスト前だけど、カウントダウン的には明日が1週間前だからセーフだよね、と自分でも誰に対してびくびくしているのかわからないまま、謎の背徳感とともに観た少クラ。

兄弟が怒られている横で、音量を小さくして観た少クラ。

家族での食事中に、曲紹介でセクシーな曲を言われ、嬉しさが顔から滲み出てしまうが、そんな時に限って家族の話が途切れてしまい、お茶の間にHairが響き渡った、あの時の少クラ。

やっぱり毎回毎回、違う顔をみせて楽しませてくれるきみたちには、感謝するばかりだ。






もっと言えば、実は、他に観たいと思うテレビ番組がない。バラエティを観ても、おもしろいと思うことがない。すぐに早送りをしたくなってしまう。そういえば、少クラにはCMがない。だから、観たい曲が後半になることもあるが、CMをまたいでひっぱることもないし、退屈しない。

何なんだろう。観終わった後に、満腹感のようなものが残る。私は、少クラが終わり、CMになった瞬間にテレビを消す。
「ああ、今日も観終わった。」と思う。
「来週も楽しみだな。」とか、「あと3週間で次だな。今月ももう後半戦か。」と考える。

何十人もの若い男の子たちのエネルギーを1時間たっぷり観ることができる。そんな番組、世界で一つしかないのでは?と思う。


私が消そうと思う瞬間に、父親が、「はい、終わりー。」と言ったことがあった。私は、その一言がひどく気に入らなかった。他人に区切りをつけられるのが嫌で嫌でしょうがなかった。そういうときは、少クラをリピって、「自分で終わるから、何も言わないで!!!」と言って、自分で終わりを決めた。

自分で終わりを決めて離れるのが1番楽である。開始時刻ぴったりから、次の番組の少し前まで、たっぷり放送してくれる日本放送協会様、大好きです!!!!!‼︎


これからも、全国、いや、世界中のファンの皆様にパワーを届けてください。












というわけで、ヲタ卒しても、少クラは観続けると思う。



ビビッとくる子が現れないことを信じて…。





とある番組…。


テレビが苦手になった。

ジャニーズが好き、ということと、我ながら到底結びつかないと思う。

だが、苦手になった。






ある番組を観た。

様々な一般人の私生活をとりあげ、それがいかがなものかと芸能人たちがとやかく言うという内容だった。

紹介VTRに対し、芸能人たちは○か×か判断する。そして、その内容について彼らが思うことを発言していく。

私にはそれが恐ろしかった。

そもそも、他人の生き方に○か×をつけるほどの権限なんて、誰にもあるわけない。もちろん違法なことを除いて。

こんなことを言い出したら、キリがないのはわかる。しかし、とても違和感があった。

さらに拍車をかけたのは、私の家族だった。親の職業柄、だらだらしている若者に文句を言いたくなるのはわかる。だけど、マジトーンで彼らの生活に文句を言ってほしくはなかった。

彼らの全てを知らずに、よくそんなこと言えるな、という気がした。そして、同年代の若者である子どもの前で、それらの言葉を吐き捨てる神経が理解できなかった。



私と彼らは別の人間だ。そして、住んでいる環境も、日々触っているものも、考えていることも全く違う。相手のことを想像したことがないくらい、全く関連なんてない者同士だ。だけど、唯一、世間から「若者」として認識されるという点で同じ部類に入ると思う。

その若者である私の前で、軽々しく批判コメントを炸裂させる親が恐ろしかった。

考えすぎかもしれない。だけど、親の言葉の節々に、私自身に対する批判メッセージが込められていそうでとても怖かった。






画面の中のコメンテーターも、私の親も、何に対して怒りをぶつけているのだろう。

人々がストレスの矛先を常に探し続けている今の時代に、その矛先をこちらに向けよとばかりに番組を製作する人たちがとても怖い。

ストレスの矛先を向けようなんて、意識的に考える人はほとんどいないと思う。だからこそ、「無意識に負の感情を集めるテレビ番組」って考えると、恐ろしかった。

「無意識に負の感情を集めて、数字をとる。」ということを制作側は考えてるのかな、なんて想像し始めると、本当に恐ろしくてしょうがなかった。

そんなこと、出演者や制作側はこれっぽっちも考えていないかもしれない。




だけど、私はそんなことを考えてしまった。




この癖やめたい。












それに加えて、「その番組を観ていたら、実生活でもそんな目線で他人を見る癖がついちゃいそう。」っていう恐怖もある。何も考えずにテレビを観ていても、大なり小なり何らかの影響が自分に及ぶはずだ。その影響が、マイナスにでてしまったら、と考えると、とても怖い。

他人を○か×かなんて判断する番組を観るよりも、素直な感情のやりとりであるAVを観た方が楽しいと思った。

特に女性向け。男性向けは、「現実にあったら捕まるでしょ。」とか、「一歩間違うと危険すぎる。」とかあるけど、女性向けは比較的穏やかな気持ちで観ることができる。もちろん、全部そうだとは言わないし、私が知らないだけかもしれないけれど。